Column

当事者意識

第4回 ・ 2026年9月11日

言葉の資産集に「当事者意識」という言葉を置いている。評論家ポジションに座らない。現場に立つのが、全ての出発点である。資産集の中でも、一番手前に置いている言葉である。

当事者は、もともと法律用語だとされる。1890年に制定された民事訴訟法に、すでに使用例があるという。訴訟の当事者、つまり原告と被告のように、ある事柄に直接関わる人を指す言葉として定着したらしい。対義語は傍観者、第三者。関わらずに眺めている側の人間だ。当事者意識とは、傍観者の位置から降りて、自分をその一方の当事者として置き直す、意識の切り替えを指している。

私にとってこの言葉の源流は、法律の条文ではない。15年前、自分が書いた一行である。

社会人になって3年目の投稿だ。まだ何も成し遂げていない時期に、結論だけを先に書いている。若さゆえの断定だと思う。ただ、この断定を、その後15年、一度も撤回していない。

7年後にも、同じ言葉を使っている。

技術カンファレンスの聴講メモだ。3年目の宣言だった言葉が、10年目には、目の前の議論を測る物差しとして、メモの中に当たり前に混ざっている。宣言は、使い続けると道具になる。

評論家ポジション

現場にいると、この言葉の反対側にいる人間を、何度も見てきた。会議ではよく喋る。しかし、いざ手を動かす番になると、すっと身を引く。私はこの型に、名前をつけている。

評論家ポジション。設計にも、客先の要件にも、ひとこと持っている。だが、その言葉に自分の名前は乗っていない。乗せているのは、いつも他人の名前だ。

机上の正しさと、現場でうまく通る解は、別物である。評論家ポジションに座ったままでは、その差分は埋まらない。埋めるのは、責任を引き受けて自分の名前で下した一つの決断だけだ。だから、評論家ポジションに渡す処方箋は、分析でも精神論でもなく、行動そのものにした。

語る前に、自分で1つ動かす。難しいの後ろに、だからこうするを足す。論評ではなく、成果物を出す。この3つは、当事者意識という言葉を、抽象論から手順に変えただけのものだ。当事者意識を持て、と言われても、持ち方までは誰も教えてくれない。だが、自分で1つ動かす、なら今日からできる。机上の論を現場の解に変えるのは、覚悟ではなく、この程度の手順である。

学びは、自分ごとからしか深まらない

当事者意識と対になる言葉に、自分ごとがある。2009年から2026年7月までのXの過去投稿を振り返ると、当事者と自分ごとを含む投稿は、合わせて78件出てくる。大半はNewsPicksの記事への相槌で、誰かの当事者意識を褒めるか、誰かの他人事ぶりを嘆くかのどちらかだ。その中に、自分自身の学び方について書いた一行があった。

本を読んで書き留めたメモである。ポストの末尾に添えていたリンクはもう切れていたが、たどり直すと、千田琢哉さんの『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』にある一文だった。20代に向けた読書術の本である。お得です、と言い切っている。数ある教えの中からこの一文を書き写した時点で、答えはもう出ている。自分ごとにする癖は、道徳の話ではなく、損得の話だ。他人事のまま読んだ本は、感想で終わる。自分事として読んだ本は、行動に変わる。同じニュースを見ても、当事者側に立って読むか、傍観者側から眺めるかで、そこから持ち帰れる学びの量が変わってくる。

評論家ポジションは、居心地がいい。責任を負わずに、正しいことだけを言える。だが、そこに座っている限り、机上の正しさは現場の解にならないし、読んだ本も自分の力にならない。当事者意識をこの資産集の一番手前に置いているのは、そこが、他の全ての言葉が自分ごととして染み込むための入り口だからだ。評論家ポジションに座らない。自分ごととして現場に立つ。全ての出発点は、そこにある。

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