言葉の資産集に「当事者意識」という言葉を置いている。評論家ポジションに座らない。現場に立つのが、全ての出発点である。資産集の中でも、一番手前に置いている言葉である。
当事者は、もともと法律用語だとされる。1890年に制定された民事訴訟法に、すでに使用例があるという。訴訟の当事者、つまり原告と被告のように、ある事柄に直接関わる人を指す言葉として定着したらしい。対義語は傍観者、第三者。関わらずに眺めている側の人間だ。当事者意識とは、傍観者の位置から降りて、自分をその一方の当事者として置き直す、意識の切り替えを指している。
私にとってこの言葉の源流は、法律の条文ではない。15年前、自分が書いた一行である。
プロフェッショナルな仕事とは圧倒的な当事者意識を持つことから始まる。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) May 15, 2011
社会人になって3年目の投稿だ。まだ何も成し遂げていない時期に、結論だけを先に書いている。若さゆえの断定だと思う。ただ、この断定を、その後15年、一度も撤回していない。
7年後にも、同じ言葉を使っている。
圧倒的当事者意識を持って主体的に変革につなげるところと、なんでブロチェ?ってとこの追求。この2点が共通するテーマだった。変革するの本当にそれで、といったところを透明にする。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) October 31, 2018
技術カンファレンスの聴講メモだ。3年目の宣言だった言葉が、10年目には、目の前の議論を測る物差しとして、メモの中に当たり前に混ざっている。宣言は、使い続けると道具になる。
評論家ポジション
現場にいると、この言葉の反対側にいる人間を、何度も見てきた。会議ではよく喋る。しかし、いざ手を動かす番になると、すっと身を引く。私はこの型に、名前をつけている。
会議では語る、現場では動かない。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) June 28, 2026
「あの設計、筋が悪いですよね」
「あのお客さん、要件が分かってないんですよ」
よく喋る。でも、いざ振ると、すっと身を引く。
その振る舞いを、私は
Salon de Engineer(評論家のSE)と呼んでいる。
シリーズ「SEとは?」── 第6回。
評論家ポジション。設計にも、客先の要件にも、ひとこと持っている。だが、その言葉に自分の名前は乗っていない。乗せているのは、いつも他人の名前だ。
Salon de Engineerは、語るが、決めない。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) June 28, 2026
評論に、責任はいらない。でも、決断には、責任がいる。
責任を引き受けなければ、現場の構造は変わらない。
構造を動かさなければ、信頼は積み上がらない。
つまり、
評論は、現場を1ミリも動かさない
机上の正しさと、現場でうまく通る解は、別物である。評論家ポジションに座ったままでは、その差分は埋まらない。埋めるのは、責任を引き受けて自分の名前で下した一つの決断だけだ。だから、評論家ポジションに渡す処方箋は、分析でも精神論でもなく、行動そのものにした。
評論家のSEは、頭がいい。だからこそ、もったいない。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) June 28, 2026
変わる3つ。
1. 語る前に、自分で1つ動かす
2. 「難しい」に「だからこうする」を足す
3. 論評より、成果物を出す
あなたが最後に、自分の手で動かしたのは、いつですか?
#SEとは
語る前に、自分で1つ動かす。難しいの後ろに、だからこうするを足す。論評ではなく、成果物を出す。この3つは、当事者意識という言葉を、抽象論から手順に変えただけのものだ。当事者意識を持て、と言われても、持ち方までは誰も教えてくれない。だが、自分で1つ動かす、なら今日からできる。机上の論を現場の解に変えるのは、覚悟ではなく、この程度の手順である。
学びは、自分ごとからしか深まらない
当事者意識と対になる言葉に、自分ごとがある。2009年から2026年7月までのXの過去投稿を振り返ると、当事者と自分ごとを含む投稿は、合わせて78件出てくる。大半はNewsPicksの記事への相槌で、誰かの当事者意識を褒めるか、誰かの他人事ぶりを嘆くかのどちらかだ。その中に、自分自身の学び方について書いた一行があった。
日常に起こったことを他人事としてではなく、自分事として捉えていく癖を人生の早い時期でつけておくとお得です。
— 近藤雄貴 (KONDO Yuki) (@konpan) February 16, 2012
#inbook
本を読んで書き留めたメモである。ポストの末尾に添えていたリンクはもう切れていたが、たどり直すと、千田琢哉さんの『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』にある一文だった。20代に向けた読書術の本である。お得です、と言い切っている。数ある教えの中からこの一文を書き写した時点で、答えはもう出ている。自分ごとにする癖は、道徳の話ではなく、損得の話だ。他人事のまま読んだ本は、感想で終わる。自分事として読んだ本は、行動に変わる。同じニュースを見ても、当事者側に立って読むか、傍観者側から眺めるかで、そこから持ち帰れる学びの量が変わってくる。
評論家ポジションは、居心地がいい。責任を負わずに、正しいことだけを言える。だが、そこに座っている限り、机上の正しさは現場の解にならないし、読んだ本も自分の力にならない。当事者意識をこの資産集の一番手前に置いているのは、そこが、他の全ての言葉が自分ごととして染み込むための入り口だからだ。評論家ポジションに座らない。自分ごととして現場に立つ。全ての出発点は、そこにある。
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