偏愛探求の第3回である。今回は野菜の話をする。好きな野菜は何かと聞かれたら、考えるより先に答えが出る。ネギである。
第1回はまぐろたたき丼、第2回はサガン鳥栖。どちらも、食卓や週末の主役の話だった。ところが、今回のネギは主役ではない。薬味である。丼の隅に、味噌汁の上に、少しだけいる存在だ。それなのに、私は毎日ネギを欠かさない。主役を差し置いて、皆勤賞なのである。
なぜ、私はネギが好きなのか。良い機会なので、真面目に探究する。
出合いを覚えていない
まぐろたたき丼には出合いの層があり、サガン鳥栖には0-2の敗戦があった。ところが、ネギには出合いの記憶がない。いつから好きなのか、思い出せないのだ。
心当たりならある。私の実家は、家の裏が畑だった。そして、畑にはいつもネギがあった。ネギは買ってくるものである前に、そこに生えているものだった。つまり、私はネギと出合っていない。物心ついたときには、もうそこにいたのである。
はっきりしているのは、ここ5年ほどで特に好きになったことだ。昔、アメトーークでネギ芸人の回を観たことがある。あの回はまさに、アメトーークならぬネギトーークだった。良いネギは、緑と白の境目がくっきりしていて、葉先に張りがある。そんな選び方まで語られていたのに、当時の私は気にも留めていなかった。今なら、はっきり言える。華丸さんもケンコバさんも、仲間である。芸人がネギ芸人を名乗れるのなら、私はネギSEである。
理由は後で探究するとして、まず言えることがある。出合いを覚えている好きは、物語になる。出合いを覚えていない好きは、いつの間にか生活に溶け込んでいる。ネギの好きは、後者である。
毎日ネギとともに生きている
今日も、朝ご飯の納豆と味噌汁にネギを入れた。昼ご飯のチャーハンにも乗せた。ちなみに、このネギは妻が買ってきてくれたものである。
日によって、皿は変わる。朝は冷奴にネギを乗せる日があり、昼はラーメンにネギを足す日がある。夜はネギトロ丼を作り、その上にさらに刻みネギを乗せる。こうして書き出すと我ながら驚くが、誇張ではない。毎日、ネギとともに生きている。
薬味ばかりでもない。昨日は、家で炭から火を起こして焼き鳥をやった。自分で起こした炭火で焼いたネギは、甘くて最高だった。生なら薬味として皿を締め、火を通せば甘くなって主役側に回る。同じ野菜の中に、二つの顔が同居している。
この皆勤賞を支えているのは、ネギの特性である。
第一に、どの料理にも合う。和食にも中華にも収まり、しかも主役の味を乗っ取らない。
第二に、安くて手軽である。そこらで買えて、刻んで乗せるだけで料理が一段完成に近づく。
第三に、緑である。刻んで乗せるだけで、茶色くなりがちな食卓に彩りが差す。
万能ネギという名前の野菜が売られているが、あれは誇張ではないと思う。どの皿にも入り、どの皿も壊さない。万能とは、何でもできることではなく、どこでも邪魔にならないことなのかもしれない。しかも、ネギの万能は味だけの話ではなかった。本質的に良いのだ。
罪悪感が減る、の正体
私がネギを乗せるとき、頭の中では小さな取引が行われている。今日はラーメンだけれど、ネギを乗せたから大丈夫、という取引である。ネギを食べておけば、罪悪感が減る。長年、そういう感覚で生きてきた。
良い機会なので、この感覚に裏付けがあるのか調べた。あった。
ネギの香りの正体は、アリシンという成分である。刻んだり切ったりして細胞が壊れたときに生まれる、あのツンとした香りだ。アリシンには殺菌作用があり、昔から「風邪にネギ」と言われてきた根拠になっている。血流を良くする方向にも働く。さらに、ビタミンB1と結びついて吸収を助けるので、疲労回復の側面まである。B1の多い豚肉との相性が良いということだから、ラーメンにネギが乗っているのは、味だけの話ではなかったのである。
面白いのは、アリシンは刻みたてが一番多いという点だ。加熱しすぎたり、水にさらしすぎたりすると減っていく。つまり、薬味として生のまま乗せるという食べ方は、ほぼ最適解なのである。付け加えると、食べすぎれば胃には刺激になるから、目安は1日50g程度、毎食少しずつがちょうど良いらしい。納豆に、味噌汁に、丼にと小分けに乗せる私の食べ方は、知らないうちに、ある種の正解と思われる状況になっていた。
罪悪感が減るという長年の感覚は、気のせいではなかった。感覚が先で、理屈が後から追いついてくる。好きというのは、案外、あなどれない計測器である。
なぜ、これほど惹かれるのか
ここまでを踏まえて、ネギの好きを支えている理由を並べてみる。
第一に、邪魔をしない。ネギは主役の座を狙わない。納豆の日も、ラーメンの日も、ネギトロ丼の日も、主役はあくまで向こうである。それでいて、ネギが無いと皿が少し寂しい。出しゃばらないのに、欠けると分かる。
第二に、続けられる。高級食材への好きは、財布が続かない。手間のかかる好きは、平日が続かない。ネギは安くて、手軽で、そこらで買える。毎日続けられる形をしている好きだけが、生活に残る。
第三に、整えてくれる。味を整え、彩りを整え、そして罪悪感まで整えてくれる。緑が一つ乗るだけで、皿の景色と心の収支が同時に良くなる。ここ5年で特に好きになったのは、たぶんこのためだ。健康が気になり始めた年齢の食卓で、ネギは小さな安心として機能している。
並べてみて気づく。ネギがしてくれているのは、派手な一発ではなく、毎日の小さな調整である。
答えは、「お守り」
第1回のまぐろたたき丼は「層」だった。第2回のサガン鳥栖は「砂岩」だった。ネギを総括する言葉を探すと、これになる。「お守り」である。
お守りは、主役ではない。鞄の隅に、そっと入っている。それでいて、持っていると少し安心して、無いと少し不安になる。納豆に、味噌汁に、丼に乗る緑は、私にとって食卓のお守りなのだ。しかも、このお守りはアリシン入りで、気休めではなく実際に効く。
「なぜ、私はネギが好きなのか?」への回答は、こうなる。「毎日の食卓を、味も彩りも罪悪感も、そっと整えてくれる緑のお守りだから」だ。どうやら私は、主役ではないのに欠かせないものに弱いらしい。
今夜も、ネギトロ丼に刻みネギを足すだろう。緑の乗った丼を眺めて、今日も大丈夫だと思うのだろう。
好きの理由を探究しても、好きは減らない。むしろ、今夜の薬味が少し増えそうだ。たぶん、そういうものである。